呂布奉先

中国、三国志の時代の武将(猛将)呂布奉先の人物紹介です

呂布 奉先(りょふ ほうせん)

呂布 奉先(りょふ ほうせん)

王允は呂布を奮武将軍に任命し、温侯に爵位を上げ、三公と同じ待遇を与えて政治に参加させた。董卓の娘婿の牛輔を李粛に攻撃させたが、敗れて帰ってきたので呂布は李粛を死刑にした。呂布は董卓を殺害した後、董卓の出身地である涼州の人間との仲が険悪になった。これが原因となり李[人寉]らは涼州の人間たちを束ねて長安を攻撃させた。呂布は長安を守り切ることが出来ず、数百騎の手兵を引き連れて武関を出、 袁術の元に落ちていった。

呂布は袁一族を多数殺害した董卓を殺したのだから、袁術は自分を歓迎してくれると考えて南陽に向かったが、袁術は呂布の不忠義と武勇を恐れて受け入れなかった。そこで呂布は袁紹の元に身を寄せた。袁紹は呂布と共に常山で黒山賊の張燕と戦った。呂布は赤兎という名前の馬に乗り、手兵側近を引き連れて敵陣に突撃をかけ、張燕を打ち破った。この後、兵員の増強を要求したり、配下の兵が略奪を行ったので袁紹との関係が悪化した。そこで呂布はいとまを申し出た。袁紹は将来呂布と敵対して苦労することを恐れ、刺客として武装兵30名を差し向けた。呂布は彼らを帳の外に止め置いて、中では琴や鼓を演奏させた。兵士たちが寝静まると呂布は立ち去ったが兵士たちは気が付かなかったという。

呂布はまず陳留太守の張[L貌]の元に立ち寄り、立ち去る際には誓いを交わすほどの仲となっていた。このことを聞いた袁紹は非常に腹を立てた。そして仲の良い河内の張楊の元に身を寄せたが、袁紹の追手は呂布の武勇を恐れて近寄らなかった。張[L貌]は袁紹の立腹を知り、 曹操が結局は袁紹の指図で自分を攻撃するのではないかと恐れた。曹操が徐州遠征に向かった194年、張[L貌]の弟の張超は曹操配下の 陳宮、許[シ巳]、王楷 らと結託して曹操に対して反乱を起こし、呂布を[亠兌]州に招き入れた。 [亠兌]州は大半が呂布の味方となり、荀[或”]と程[日立] が守るケン城などわずかが残るのみであった。


 | HOME | 

Calendar

07 | 2008-08 | 09
S M T W T F S
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31 - - - - - -

Appendix

ryofu

ryofu

DTIブログにようこそ!

DTIブログ
ブログでアフィリエイト


DTIブログポータルへ

このブログを通報

Monthly

Categories

Recent Entries

Recent Comments

Recent Trackbacks