呂布奉先

中国、三国志の時代の武将(猛将)呂布奉先の人物紹介です

呂布 奉先(りょふ ほうせん)

袁術は呂布を味方につけようと考え、自分の息子と呂布の娘との縁談を持ちかけた。呂布はこれに同意し、袁術の使者の韓胤は袁術の皇帝僭称のいきさつを呂布に通告し、嫁を迎えさせた。沛の相の陳珪は袁術と呂布が結ぶのは国家の害となると考え、呂布を説得した。呂布は娘と韓胤一行を連れ戻し、韓胤を許昌に護送した。呂布が曹操の推薦により左将軍に任命されると、陳珪は息子の陳登を曹操に送る許可を呂布から得ることが出来た。呂布からの感謝状を曹操に届けた陳登は、曹操に呂布を滅ぼす手立てを考えるべきだと進言した。曹操は陳登を広陵太守に任命し、来る時までに兵を養っておき、内応せよと命じた。

袁術は激怒して、楊奉、韓暹らと同盟を組み、 張勲を総大将として呂布を攻撃させた。陳珪の計略により楊奉と韓暹は呂布に味方し、袁術軍は大敗した。琅邪太守の蕭建はこれまで呂布と敵対していたが、このとき呂布に帰順の意を示した。ところが泰山の臧覇が琅邪を攻め落としたので、激怒した呂布は高順の諌めを振りきって琅邪を攻撃した。結局琅邪を攻め落とすことは出来ず、下[丕β]に帰還した。後に臧覇とは和を結んだ。

198年、呂布は再び曹操に反旗を翻し、袁術と結んだ。高順を派遣して沛の劉備を攻撃させ、これを落城させた。高順は援軍の夏侯惇をも打ち破った。曹操は自ら軍を率いて下[丕β]を包囲し、呂布に降伏を求めた。呂布には降伏の意があったが、部下の陳宮に説得されてこれを取りやめた。

許[シ巳]と王楷を袁術の元に派遣して援軍を求めた。呂布は娘を背負って馬に乗り、自ら袁術の元へ届けようとしたが曹操軍の攻撃に遭って果たせなかった。陳宮と高順に城を守らせ、呂布は自ら騎兵を率いて城外に出、曹操軍の両道を断つつもりであったが、妻の反対に遭って結局この計画も実行されなかった。

曹操の包囲は3ヶ月にもおよび、城内では将軍たちが不和を起こし、 侯成、宋憲、魏続 が陳宮を捕らえて曹操に降伏した。呂布は側近たちと共に白門楼に立て篭もったが、包囲が厳しくなると降伏した。

呂布が曹操の前に引き出されると「縄目が強すぎる。緩めてくれないか。」と呂布は曹操に頼んだ。「虎を縛るのだからきつくしない訳には行かない。」と曹操は答えた。「殿が心配なのは私一人だったはず、それが降伏したのだから殿が歩兵を率い、私が騎兵を率いれば天下は殿の物だ。」と呂布は言った。曹操はこの呂布の言葉に迷っていたが、同席していた劉備が「殿は彼が丁原、董卓を裏切ったことをお忘れか?」と曹操に言うと、曹操はうなずいた。呂布は「この男こそ一番信用できないのだぞ!」と叫んだが聞き入れられず、陳宮、高順と共にくびり殺された。

陳寿の評に曰く、「呂布は虎の如く勇猛であったが英雄の才略なく、軽率、狡猾で裏切りを繰り返し、目先の利益だけにとらわれていた。古今よりこの種の人物が破滅しなかったためしはない。」と。 (魏書・呂布伝)

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